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2025 05.27
板垣退助の理想と明治政治のリアリズム

はじめに

政治が混迷している。円安、物価高、安全保障環境の悪化、まさに内憂外患の厳しい環境下でありながら、政治に対する期待は(残念ながら)益々しぼみつつある。投票率は選挙を行う度に過去最低を更新し続け、所謂国民の政治離れに歯止めが効かない状態が続いている。要因は様々あるが、一つの大きな課題は、政党政治に対する国民の不信が高まっていることではないだろうか。郷土の大政治家濱口雄幸が、その遺書とも言える「随感録」で「議会の近況は何たる亡状であるか、何たる醜態であるか。」と叫び、二大政党下での行き過ぎた党利党略と足の引っ張り合い、政策論争ではなくスキャンダルなどの個人攻撃に終始する議会の姿を糾弾してから92年。現代政治もいつか来た道を転がり落ちているかのような様相を示していると言わざるを得ない。国民中心の政党内閣を追求した濱口内閣の崩壊後、日本の政治に訪れたのが左右共に極端な主張をする勢力が勃興したこと、そして軍部の台頭であったことを考えれば、今改めて政党政治のあり方を真剣に考えなければならない瀬戶際の時期なのではないだろうか。そんな中、歴史を振り返った時に光っているのが、明治に入り国際社会にデビューした日本政治の流れの中で板垣退助に代表される政党政治家達が選択したリアリズムであり、その一貫した信念と視野の広さである。本稿ではこれを象徴する板垣を中心とした幾つかのエピソードを紹介することとする。

⺠権運動の原点・会津芋

明治維新後の新たな政治体制を立憲政体と定め、自由民権運動を始めた板垣の行動の原点が、戊辰戦争時の会津城攻防戦での経験にあったという説がある。

所謂「会津芋」のエピソードである。会津若松城落城後、敗軍へ芋を差し入れることを懇願してきた老農夫に感動した土佐兵に対し、板垣は逆に天下の雄藩会津であっても、民間人で国を思って行動したのがこの老農夫のみであり、他が悉く国を捨てて逃げたことが問題の本質であると述べ、これが武士という特権階級のみが政治に参画して来たことの弊害で、欧米列強が日本に迫っている危急存亡の今、武士だけでは国を守れないと悟ったと言われている。以後の板垣は武士という限られた世界での権力交代ではなく、国民を巻き込んだ改革である自由民権運動を進めると共に、その尊王思想と民権思想を一致させた一君万民論、そしてそれを体現すべく「一代華族論」を唱え特権階級を否定、自らも華族の称号を子孫に引き継がず、天皇家のもとで国民が等しく政治に関わる立憲政体の樹立に奔走するのである。そういった意味で明治維新を「明治第一の改革」、自由民権運動を「明治第二の改革」と称するのは、武士から武士への政権交代であった第一の改革と違い、第二の改革は初めて国民が参加した政治運動であったことが最大の理由であり、板垣の会津での経験が明治以降の我が国の政治体制に大きな影響を与えたのである。

議会の成立と板垣の変化

板垣は前述の理念により、明治新政府成立以後の専制政府は国民から選ばれた政府ではなく、権力の正当性はないと考えていた。だからこそ、政府の打ち出した政策については、例え良い政策であっても基本的には戦う姿勢を見せ、これが自由党の基本方針でもあった。しかし、自由民権運動、国会開設運動を経て明治23年に第一回衆議院議員総選挙が開かれ、帝国議会が開会されるとその考えに変化を見せることとなる。

この選挙は、直接国税15円以上納税の満30歳以上男子のみということで、女性参政権もなく、有産階級のみの不十分なものではあったが、民主政治への第一歩を記した大きな変化であったことを板垣は評価し、これまでとは違った対応、つまり全て反対ではなく協調姿勢も必要と考えるようになった。明治23年に発表された愛国公党論の中で板垣は「専制政体のもとで起こった自由党は逆境に処し積弊を破るために矯激とならざるを得なかった。しかし、立憲政体の下で起こる政党は、政策を立案し政務を執行する責任を負うため、着実とならざるを得ない」と記し、難産の上に折角生まれた立憲政体をしっかり運用し育てていくために政党の良識も問われるのだとの認識を明らかにしている。これはまさに、反政府運動に徹して来た板垣を始めとする民権派が官民協調路線に舵を切った大きな分岐点となったのである。

板垣の変化の背景

この板垣の考え方の変化の背景には、明治20年夏の黑田清隆との会談があると言われている。黑田は薩摩出身の軍人、政治家であり政治的には超然主義を取る政府側の要人で、板垣とはそれまで政治的立場を異にしていたが、会談の前年明治19年から約一年間欧米諸国を周遊、大日本帝国憲法制定にあたり伊藤博文に影響を与えた憲法学者シュタインを始め多くの知識人と交流し、最新の世界情勢に触れたばかりであった。そこで欧米列強を始めとする国際政治の厳しい状況下で日本の存在感を高めていくためには、国内の争いを抑制し、官民協調路線を取ることが重要だとの板垣との意見の一致を見たのである。その後黑田は民権派の最重要人物である板垣との関係構築に腐心し、北海道開拓⻑官時代からの腹心時任為基(俳優の時任三郎の祖先)が高知県知事に就任後、時任を通じて意思疎通を図ろうとした。その証拠に、明治23年4月の黑田内閣成立後すぐ、時任知事は慣例を破って高知の板垣邸を訪問、意見交換を行い、板垣もまた返礼として知事邸を訪問、共通の政策課題である浦戸湾の改良問題などに取り組むと共に、後藤象二郎の入閣問題などにも関与している。また板垣も、黑田との明治20年夏の会談後に起こった三大事件建白運動に関しても慎重な対応を取り、自重を促すなど、協調路線に転じると共に、黑田(政府側)に対しては民権派(民間側)が過激な行動に走るのは政府に対する反発であり、民権派の求める国民の権利拡大などを実行すれば穏健な対応するようになると説いた。黑田はその後、片岡健吉始め投獄された土佐の民権指導者達の追放令を明治21年一⻫に解除する手続きを取るなど、政党政治家である板垣と超然主義者である黑田、立場は違えども国の将来を見据えた上での両者の協調関係は続いた。

土佐派の「裏切り」から見える「リアリズム」

この板垣の協調主義の一つの帰結、象徴的事象が、所謂「土佐派の裏切り」である。明治23年11月29日、世界の注目を浴びる中で第一回帝国議会が開会した。選挙の結果、絶対多数を占めたのは民権派を中心とする反政府勢力である「民党」である。民党は当初から「政費節減・民力休養」を主張し、真っ向から政府と激しく対立、決裂も辞さない強硬姿勢で臨んだが、最終的に予算は民党の中の片岡健吉や林有造など土佐派26名の造反によって成立したのである。この行動によって土佐派の面々は民党の仲間から激しい攻撃を受け、「土佐派の裏切り」という不名誉な称号を与えられることとなった。この土佐派の後ろ盾となっていたのが板垣であり、その後自由党を共に脱党するなど政治行動も共にしている。当時は政府の露骨な切り崩しに屈し、金銭まで受け取って裏切ったとの散々な評価であった「裏切り」であるが現在の研究では、土佐派の妥協によって

  • 国際社会に注目される中で無事に第一回の国会を運営出来たこと
  • 修正案が成立したことにより当初の目的であった予算削減も実現したこと

など大きな成果もあったということも定説になっている。私はここに、欧米列強の厳しい帝国主義に対抗するためには、国内で無用な争いをする必要がないこと、併せて政党政治を確立するためには、理想主義を追求しながらも現実的観点で妥協も必要だとの会津攻防戦以来板垣が一貫して持ち続けてきたリアリズムを見る。板垣はその後、自らの理想と現実の乖離に直面しながらも、理想の実現のためには国民の成⻑も必要だと、教育や福祉といった社会改良にその人生を捧げることとなる。最後に、冒頭書いた通り現代政治は数々の問題を抱えているが、板垣を始めとする土佐の政治家達が理想を追求しつつも厳しいリアリズムを持って政治に真摯に取り組んできた歴史を風化させず、再評価し、各政党が良識を持って対話すること、そして何より板垣が晩年腐心したように国民が政治に対する信頼を深め、自ら参画するという意志を持つことが、未来を拓く礎になると確信する。尚、最後に本稿を記すにあたり引用した会津芋、黑田清隆との会談と時任知事の板垣邸訪問などは歴史家公文豪先生の長年の地道な研究の土台あってこそ書くことが出来たエピソードであり、心からの感謝と敬意を表すものである。公文豪先生はこうした長年の素晴らしい成果が高く評価され、2023年度の高知県文化賞を受賞された。歴史に残る研究を草の根で続けて来られた公文豪先生の今後益々のご活躍と研究の更なる進展を願って筆を擱くこととする。

以上。

参考文献

  • 公文豪『岐阜の凶変後日譚』

  • 濱口雄幸『随感録』

  • 村瀬信一『第一議会と自由党』

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