


自民党参議院徳島高知選挙区支部長
大石宗
大学在学中、大前研一氏の「一新塾」に入塾。高知県と東京都の合併シミュレーションを行って「全体最適と部分最適」や「地方再生の道」を探る。市町村合併&北海道夕張市の破綻を見て政治への志を膨らませた。就職した神戸製鋼で日本のものづくり現場の空洞化を体感、24歳で退職して政治の道へ。以来、ひたすら地方のために熱い思いで動き続けている。小学校2年で剣道を始め、高校では主将。県議になったあとに再開し、現在4段。趣味はほかにライブ(ギター担当)、読書、狂言(大蔵流の茂山逸平高知一門会)。特技は速読。好きな食べ物は土佐ジローの卵かけご飯&くいしんぼ如月のチキンナンバン。先の大戦における海外戦没者の御遺骨収容活動(特にニューギニア島)を大学時代から継続中。曽祖父は戦前戦中に高知県選出衆議院議員を5期務めた大石大。家族は妻・千景と中学生の長男、小学生の次男。
経歴
1980年9月11日 | 高知市で生まれる。 |
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1987年4月 | 高知市立小高坂小学校入学 小学校2年のとき、近所にあった高知錬心館で剣道を始める |
1993年4月 | 私立高知学芸中学校入学 剣道の強豪校だったので受験。剣道部に入部、レギュラーに |
1996年4月 | 私立高知学芸高校入学 バンドを組んでライブハウスを渡り歩く。テレビにも出演 フジテレビの高校生クイズ選手権に出場し、東京へ。ベスト10に入る 剣道部では2年生のとき四国大会出場、3年生のときは主将 |
2000年4月 | 日本大学法学部政治経済学科入学 面接を突破、政治過程論の秋山和宏ゼミに 選挙ボランティアにも参加。京都4区の北神圭朗氏を知り、心酔する 大前研一氏の『一新塾』に入塾、高知県と東京都の合併をグループ発表 卒論は『自由民権が残した成果』。高知市の自由民権記念館に通う 卒業旅行はインド。安宿を泊まり歩いて素顔のインドを知る |
2004年4月 | 株式会社神戸製鋼社入社
筆記と5∼6度の面接を突破。面接で同社前身の鈴木商店と土佐派の縁を話す 海外勤務となる可能性が最も高い溶接部門を希望する 初任地は広島市の中国支店。鳥取、島根、山口を担当し、営業活動 |
2005年8月 | 退職し、高知にUターン。政治の道へ
北神圭朗氏にもらった40万キロ走行の中古車『改革のゴジラ号』に荷物を詰め込んで帰高する |
2007年4月 | 全国最年少の26歳で高知県議会議員に当選
民主党公認で立候補し、定数15人の高知市選挙区で2位当選。8686票 |
2011年4月 | 高知県議会議員に再選 高知市選挙区。9111票で2位当選 |
2012年12月 | 衆議院議員選挙に高知1区(県中央部)から立候補し落選 |
2013年8月 | よさこい祭りの総踊り曲『この地へ~』を披露
『みんなでよさこいプロジェクト』の専務理事として友人のGReeeeN、HIDEに曲作りを依頼、HIDEの好意で総踊り曲『この地へ~』が誕生した |
2014年2月 | 民主党内にできた『国軸の会』に参加
代表と事務局長は現自民党衆議院議員の長島昭久氏、鷲尾英一郎氏。ほかのメンバーは現無所属衆議院議員の北神圭朗氏、吉良州司氏、現埼玉県知事の大野元裕氏ら。ほとんどが現職国会議員の中、唯一の国会議員未経験者として参加する |
2014年7月 | 『国軸の会』の一員としてワシントンD.C.を訪問
戦略家エドワード・ルトワック氏や、元国務副長官リチャード・アーミテージ氏らと意見交換を行う |
2014年12月 | 衆院選に区割り変更後の高知1区(県東部)から立候補し落選 |
2016年9月 | 『国軸の会』の台湾訪問に参加(蔡英文総統と懇談) |
2017年9月 | 衆院選に高知1区から立候補し落選
2012年から7年間の浪人生活。ビニールハウスでシシトウ収穫のアルバイトも |
2019年4月 | 高知県議会議員に3選(高知市選挙区)
無所属で立候補し、14600票という県政史上最多得票でトップ当選 自民党の武石利彦氏と会派『一燈立志の会』を立ち上げ |
2023年4月 | 高知県議会議員に4選(高知市選挙区)
無所属で立候補し、9443票で連続トップ当選。『一燈立志の会』4人に |
2025年1月 | 高知県議会議員を辞職 |
2025年2月 | 自由民主党参院選徳島高知選挙区支部長 |
ひとり語り
大石宗の物語
大石宗とは何者か。読書の虫、大食漢、剣道4段、ミュージシャン、そして政治家。せっかく入った神戸製鋼を1年5カ月で飛び出して政治の道に。以来20年、転びながら駆け続ける大石宗のひとり語りに目を通してみてください。
1980年9月11日、高知市で出生
1980年9月11日、高知市で出生
幼少期は高知市内西端の朝倉で育ちました。1980年当時はまだ開発の波が押し寄せておらず、田んぼや畑に囲まれ、牛がいるようなのどかな環境でした。小学校に入るとき、越前町にある父の実家に移ります。越前町は史跡の多い街でした。そもそも名前の由来が戦国武将浅井長政の元重臣、百々(どど)越前守綱家からきています。高知城の築城にあたり、山内一豊がぜひにと召し抱えた築城の名人です。家の近所に二つの史跡がありました。一つは長宗我部元親の甥であり、長宗我部家の有力な武将であった吉良親実の邸宅跡。もう一つは自由民権運動の指導者として有名な植木枝盛の邸宅跡です。ともに石碑が建立されていましたので、子供心に強い印象が残りました。
吉良親実は、若く、文武両道の才気煥発な武将だったといわれています。ところが元親の長男信親が戦死したことで元親との関係が悪化します。元親は期待し、寵愛していた信親の死を嘆き悲しみました。信親の娘を四男である盛親の妻とし、家督を継がそうと考えたのです。絶対権力者の元親に対し、親実は諫言します。近い親族同士の結婚であること、盛親は四男であり、長幼の序に反することなどです。それが元親の逆鱗に触れました。切腹の命を受けた親実は肅然とそれを受け入れ、越前町の邸宅で切腹します。元親の怒りは収まらず、親実とともに行動した武将や一族郎党をも殺しました。それから間もなくのことです。越前町の吉良邸近くでは首のない武士や大入道が目撃されるようになりました。やがてこれが怨霊伝説「七人みさき」として広まります。七人みさきの伝説は全国各地にありますが、その代表格が吉良親実一党の話だといわれています
植木枝盛邸は、遊び場だった桜馬場公園の前にありました。最初は「自由は土佐の山間より」というコピーを書いたのが植木だというぐらいの知識でしたが、毎日前を通るので、自然と植木や自由民権運動について興味を持つようになりました。植木邸は小さな民家でした。気づかずに通り過ぎてしまうような家なのですが、植木はこの座敷で「東洋大日本国国憲案」を起草したのです。自由主義的・民主主義的性格を強く打ち出し、地方自治を重視した連邦制や国会中心の統治体制もうたっていました。抵抗権や革命権を認めていたことも大きな特徴です。現在の日本国憲法の源流の一つになったともいわれています。老朽化によりこの建物の取り壊しが決まったとき、「歴史的に貴重な建物であり、残すべきだ」という声が沸き起こりました。結局建物は壊されてしまいましたが、憲法案を書いた書斎は高知市立自由民権記念館に移築されました。最新技術で移築され、当時のまま復元された書斎は記念館のメイン展示となっています。
1988年、小学2年で剣道を始める
1988年、小学2年で剣道を始める
最初は小学校になじめませんでした。本を読むのが好きだったので、学校では図書室にこもりっきり。友だちもできません。授業終わりの会で同級生が「大石君がきょうも外でドッジボールしませんでした」と報告していたのを覚えています。ぽちゃっとしていたので足も遅かった。とにかく内向的で、本ばかり読んでいる子どもでした。そんな私が2年のときに剣道を始めました。同じ町内にある「高知錬心館」に通いました。
錬心館は当時、県内でも一、二を争う厳しい道場でした。稽古は苦しくて、毎回吐くぐらいだったのですが、やめませんでした。というか、やめさせてもらえるような家庭じゃなかった。で、やってるうちに、まあまあ強くなったんです。人間不思議なもので、一つでも自信を持てるものができたら生きていけるんですね。剣道をやったことで、ほんの少しだけですが、自分に自信が持てるようになりました。弘田福先生、野中健作先生にお世話になりました。弘田先生は稽古のあとで夏はアイス、冬は肉まんをよく食べさせてくれました。そんなとき、私たちに戦争の写真を見せてくれたものです。
先生はビルマ戦線の兵士を慰霊顕彰する高知パゴダ会の役員をしていました。僧籍を取って現地の慰霊祭で読経しながら遺骨収容をするような人で、見せてくれる写真には人骨が写っているものもありました。弘田先生がいた陸軍歩兵第百四十四連隊は異常に過酷な運命にさらされた部隊です。激戦のニューギニアで戦い、生き残った者はこれも激戦地となるビルマ(現ミャンマー)に向かわされたのですから。ニューギニアでは内地出発人員3500人+補充1150人、計4650人のうち生還できたのはわずか3割。補充兵を加えて転戦したビルマでも1746名が亡くなっています。弘田先生はそのような経験をした人でした。
1993年、剣道で高知学芸中に入学
1993年、剣道で高知学芸中に入学
小学校を卒業したあと、入試を突破して私立高知学芸中学校に入りました。高知市朝倉にある中高一貫校です。学芸を選んだ最も大きな理由は剣道でした。同じ道場で一番強かった先輩が伝統的に剣道の強かった学芸に進学したのです。1972年に赴任した川添哲夫先生がその伝統を作りました。「炎の上段」の構えで知られた川添先生は香美市土佐山田町の出身で、高知高校から国士舘大に進みました。1971年、大学生で初めて剣道日本一(全日本剣道選手権優勝)になった伝説の剣士です。学芸中高の教諭になった1972年は準優勝。1975年に再び日本一になっています。
剣道部に入部した初日、先生の直接の教え子でもある中学剣道部監督の道願正美先生が見せてくれたビデオは『剣豪故郷に帰る』でした。剣道界のスターであり、就職も引く手あまただった川添先生が、剣道部らしい剣道部のない故郷の学校に赴任するドキュメンタリーです。素人同然の生徒たちと勝利を目指して奮闘する様子に感動したことを覚えています。稽古の環境に恵まれない中で、先生は二度目の日本一を勝ち取りました。そのころ学芸高に通っていた私の母は、古タイヤを引き摺りながら校庭を黙々と走る先生の姿に心から尊敬の念を抱いたそうです。
川添先生は1988年に起きた上海列車事故で亡くなられてしまいました。この事故は学芸高が初めて海外へ修学旅行に行った中国・上海郊外で起きました。生徒26人と川添先生が亡くなるという大惨事で、学校の責任が強く問われました。
剣道マンガの名作『六三四の剣』の作者である漫画家の村上もとか先生が2022(令和4)年に高知市で講演をされた際、勇気を出して聞いたことがあります。「主人公六三四の父、夏木栄一郎のモデルは川添哲夫先生ではとの噂がありますが…」と。村上先生からは「当時、取材する過程でよく記事を見ていた。そう認識してもらってかまわない。一度お会いしたかった」というお言葉を頂きました。夏木栄一郎のモデルは川添哲夫と思ってくれていいよ、と言ってくれたのです。驚きました。無性にうれしくなりました。
1996年、高知学芸高に進学。剣道、バンド、雑学
1996年、高知学芸高に進学。剣道、バンド、雑学
剣道は中高と続け、学芸高校ではキャプテンを務めました。高校2年のときからレギュラーにしてもらっていて、私は大将でした。先輩方に助けられ、県体ベスト4で四国大会に出場しています。翌年、高3の最後の県体にはキャプテンとして臨みました。準々決勝の相手は明徳義塾高でした。このときの明徳は個人戦で準優勝した大将だけが3年生、あとは下級生で、練習試合では学芸が勝っていました。ところが先鋒、次鋒がとんとんと負けて、絶体絶命。ここから学芸は踏ん張ります。中堅、副将が勝利して私にバトンが回ってきたのです。ここで私は「負けてはいけない」と思って固くなってしまい…瞬間、メンを打ち込まれて高校最後の試合は終わりを告げました。
学芸高ではバンドにものめりこみました。ギターを買って弾いて、最初は校内でバンドを組みました。飽き足らなくなって校外の人間と組むようになって。剣道の部活が終わったあとはスタジオに入り浸り。週末はライブばかりしていました。SMASH-TVというバンドを組み、出場したコンテストすべてで優勝しました。ジャンルはロック。オリジナル曲です。私はベースを担当しました。
中学高校と、本はよく読みました。本ばかり読んでいました。本をたくさん読むので国語と社会の成績がよくて、雑学が得意。雑学を生かしてフジテレビの高校生クイズ選手権にも出ました。クラスメイト2人とチームを組んで高知県予選を勝ち抜き、東京のお台場で全国大会があって。周りは名だたる進学校の連中ばかりでした。何回か勝ってベスト10まで進んだところで敗退しました。雑学は得意でしたが、発想力がなくて、殺人事件のトリックが全然解けなかった。あと2回勝ったら決勝だったかな。決勝の場所は香港でした。
2001年4月、日大法学部に進学、秋山和宏ゼミに
2001年4月、日大法学部に進学、秋山和宏ゼミに
大学は現役ではほとんど受験していません。浪人した1年間もバンドばかりやっていて 、逆に成績は下がりました。日本大学法学部政治経済学科に入りましたが、ここでも懲りずにバンドばかりやっていました。日大は1年生の授業が埼玉の大宮であるんですが、ちょうどそれも都合がよくて。バンドの機材は自前なんです。機材がたくさんいるし、それを運ぶために車もいるし、車を持つなら埼玉のほうが駐車場代が安いですから。中古で買った日産のバネットにアンプを積み込んでライブ三昧です。新宿、高円寺、いろんな街のライブハウスに行きました。
そんな生活が一転するきっかけは3年生でゼミに入ったことです。政治学のゼミに行こうと思いました。秋山和宏教授の「政治過程論」です。何かの志があって政治学を選んだわけではないのですが、政治には興味がありました。秋山先生は政治家が高い理想や倫理観を持ち続けることを願った人でした。ゼミに入ってすぐ、先生が私たちに見せた映画は「スミス都へ行く」です。1939(昭和14)年のアメリカ映画で、監督は名匠フランク・キャプラ。国会議員の死去で急きょ補欠選挙に駆り出されて当選した若い政治家の物語でした。希望に燃えて向かった中央政界は腐敗と汚職にまみれていました。スミスは信じていた仲間に手ひどく裏切られ、国会からも追放されそうになります。ボロボロになりながらも、リンカーンに代表されるアメリカ民主主義の理想を信じるスミス。クライマックスはスミスの演説でした。合衆国憲法、聖書、そして独立宣言を読み上げ、スミスは同僚議員たちの良心に訴えます。秋山先生がこの映画を見せてくれたのは、最後まで理想を捨ててはいけないというメッセージだったように思います。
2003年、大前研一さんの一新塾に入塾
2003年、大前研一さんの一新塾に入塾
大学4年の2003年、経営コンサルタントの大前研一さんが創設した政策塾「一新塾」に12期生として入りました。入った理由は、「地方政府が独自性を発揮することで国がよくなる」という大前さんの考え方に賛同したからです。大前さんは、そのためには現代の廃県置藩、統治機構改革である道州制を導入し、日本の地方政府を自立できる経済単位に改めること(大前さんによると人口規模500~2000万人)を主張していました。「最も厳しい四国でも世界30位ぐらい、南アフリカやルーマニアと同じ程度のGNP(国民総生産)がある。東京や大阪から見れば高知は辺境だが、アジアから見れば一大玄関口。オーストラリアやASEAN(東南アジア諸国連合)から見れば北米におけるシアトルやバンクーバーといった位置付けになる可能性がある」とも書いていました。
一新塾に入って学んだのは住民参加型の統治機構です。ひも付き補助金の廃止とか、地方の裁量幅を広げる必要性とか、社会の変化、時代の変化を地方のチャンスにつなげようという熱気がありました。それまでの政治は中央集権、分配型だった。これからは第二、第三の夕張(財政破綻した北海道夕張市)が出る。市町村や県の経営は待ったなしのところにきている。高度成長型、前例踏襲型ではない新しい政治が求められている、と。
卒塾前のグループ発表では、地域づくりに取り組む公務員やビジネスマンらと都道府県同士の合併シミュレーションを行いました。私たちが提示したのは高知県を東京都と合併させるプランです。高知は自然資源、東京はお金と人材を提供し合えるウィンウィンの関係が築けるのではないか。さらには八丈島のように、東京都民離島割引を適用し、東京高知間の移動を支援することによって互いが繁栄するという空想の物語を作り上げました。
政治家になろうと漠然と考えたのは一新塾で学んでいる時期だったように思います。地方が一気に財政危機になる、先例にとらわれない政治が必要になる、と感じていました。北海道の夕張市が財政破綻するという話に衝撃を受けたのもきっかけの一つです。政治経験はない。でも地域活性化は勉強しているし、自分がやるべきときではないかな、などと考え始めていました。
2003年、青春18きっぷで北神圭朗さんに会う
2003年、青春18きっぷで北神圭朗さんに会う
秋山ゼミの1学年上に仁戸田(にえだ)元氣君がいました。松下政経塾を経て、今は立憲民主党の福岡県議会議員です。彼の存在は目からうろこでした。田舎から東京に出てきて、政治のみならず、ベンチャー、ボランティア、社会活動、いろんな団体にかかわりながら活動しているのですから。政治への興味が募り、いい人がいたらその人の元で勉強したいなと思うようになりました。やがてその人とめぐり合います。現在、無所属の衆議院議員(5期目)を務めている北神圭朗さんです。
大学時代、面白い人がいると聞けば青春18きっぷを使って図々しく会いに行っていました。北神圭朗さんにはアポも取らずに訪ねていきました。京都は右京区西院の、古いという言葉を通り越した、吹けば倒れそうな事務所でした。京都らしい町屋の風情で中庭があり、お風呂は五右衛門風呂でした。秘書の方が「よう来てくれはったなあ。北神はいま集会しとる。行ってみ」と言ってくれて。近所でミニ集会をやっていて、そこに後ろから入っていって。北神さんは面白い人でした。ひと言でいうと大人(たいじん)です。アメリカ育ちのエリートですが、細かいことは気にしない。アメリカ育ちということで、日本のことをすごく意識してもいました。強烈な愛国者と言っていいと思います。
北神さんは自分の実体験を、面白く、分かりやすく話してくれました。高知から出てきた田舎者の私にとって、目から鱗の連続でした。個人や家族に物語があるように、国家にも物語がある。日本の物語を理解するためには歴史を学ばないといけない、とも語ってくれました。悠久の歴史を語ってくれました。北神さんは歴史観と国家観を持つ、世界に通用するような懐の深い政治家だと思います。日本だけでなく世界各国の古典もよく読んでいました。すべての古典に通暁していました。私のような学生にアルチュール・ランボーの詩を暗唱で語ってくれたこともあります。この人、人間としてすごいなと思いました。人間として心酔しました。
北神さんはお父さんもすごい人で、一橋大の演劇部だったそうです。映画監督になろうと思ったら友人の方が才能を持っている。その友人に映画を撮らせるために渡米して商売を始めたという人です。だから北神さんは生後すぐに渡米し、高校までアメリカの学校で育ちました。日本語は日本を代表する評論家、小林秀雄の文章を書き写して覚えたそうです。大学は京都大に入り、大蔵省を経て衆議院を目指していました。
北神さんは著書『国家の骨格』の中で、「国家」を意識するきっかけとなった小中学生時代のエピソードに触れています。
その部分を『国家の骨格』から引用しておきます。
〈米国では小学生の頃から、朝一番、授業が始まる前に、手を胸に当てて国旗に忠誠を誓う。
「I pledge allegiance to the Flag of the United States of America,and to the Republic forwhich it stands,one Nation under God,indivisible,with liberty and justice for all(私は、アメリカ合衆国の国旗に対して忠誠を誓います。また、この星条旗が象徴するのは、神様の下、国民全員に自由と正義を与え、分割すべからずの国民国家である共和国であるが、その共和国に対しても忠誠を誓います)」。
どんな人種や宗教の子供も、これを声を大にして唱える。ここに米国の国家の物語が簡潔にあらわれていると考える。
「神さま」は、キリスト教の神様。「自由」と「正義」は独立後、英国と欧州の政治から決別した際の建国精神である。「共和国」は国民が自ら国家を運営するのだという民主主義、反君主支配の精神を意味している。
私は子供の頃から18年間、米国で暮らし貴重な経験をした。
中学生の頃こんなことがあった。ベトナムから転校生がやってきた。名前はホー君。七人兄弟。ベトナム戦争の焼け野原を逃れ、難民として家族とともに、小さな船で命からがらやってきた少年だった。米国ではこういうベトナム人を「ボートピープル」と揶揄した時代である。
私はホー君を白人の友達の嘲笑から庇ったりして、友情を結んでいた。
我々と変わらない普通の少年だったが、こと勉強になると猛烈そのものだった。
私はそれを不思議に思い、ある日、草野球でひと休みしている彼に「なぜそんなに一生懸命勉強するのか」と訊ねたことがある。ホー君はいつになく大人びた表情で、「お前ら日本人は帰れる祖国があるからいいかもしれない。しかし、ベトナム人には戻れる国がない。米国で生きていくしかないんだ。言葉のハンディも、人種の差別もあるけど、ここで生活するしかない。だから、人の二倍も三倍も勉強しなければならないんだ」と答えた。彼の澄んだまなざしは、今でも脳裏に焼きついている。
祖国が個人の生活に深くかかわっていることを知った初めての経験だった〉
2004年、株式会社神戸製鋼所に就職
2004年、株式会社神戸製鋼所に就職
就職に当たって考えたのは、いきなり政治の道に進むのはちょっと浮世離れしているということでした。いつか政治をやるにしても、国家の根本に目を向けんといかんな、と。それでメーカーとリクルートを受けました。当時、NHKでプロジェクトXという番組をやっていて、日本は技術立国だ、製造業、ものづくりは大事だ、と感じていました。製造業の川上にいけばすべてに関わることができるとも思いました。製造業の最も川上に位置する会社として入社を考えたのが株式会社神戸製鋼所(以後神戸製鋼と表記)です。
高知とのかかわりも考えました。祖父の喬はラグビーが大好きでした。もちろん母校明治大学ラグビー部が一番ですが、社会人では特に好きなのが平尾誠二さん、大八木淳史さんの神戸製鋼でした。神戸製鋼は高知市にも工場がありましたし、県出身の金子直吉のことを知ったのも神戸製鋼に親近感を持った理由の一つです。金子直吉というのは明治維新期に生まれた吾川郡仁淀川町名野川出身の商人です。神戸の鈴木商店に入り、その番頭として鈴木商店を日本一のコンツェルンにしました。三井三菱を超える財閥グループを作り上げたのです。昭和に入って鈴木商店は倒産しますが、帝人やIHI、双日、サッポロビール、太平洋セメント、日本製粉など、傘下の企業は今も日本経済をけん引しています。その代表格が神戸製鋼です。
神戸製鋼の入社試験は大変でした。筆記試験のあと、面接が5~6回あったと思います。狭き門でした。鈴木商店は歴史的に神戸高商(現神戸大)派と土佐派が競って大きくしたと言われています。土佐派は野人の集団で、金子直吉は郷里の若者を書生として自宅に住まわせました。その若者たちが鈴木の営業マンとして世界中を飛び回り、道なき道を切り拓いていったそうです。私が受かったのは金子直吉、そして名も知れぬ鈴木商店の土佐派の先輩たちのおかげだと思います。居酒屋で飲みながらの面接もあり、そこで「僕は高知県人なので、直吉の土佐派の系譜です!御社とは縁を感じています。雇われる運命にあります!」と図々しく話しました。担当官は大笑いして面白がってくれました。採ってくれてありがたかった。
研修初日の担当はラグビーの名選手、林敏之さんでした。迫力ありましたねえ。いきなり神鋼魂をたたき込まれました。感動しました。初任地は広島、中国支店です。私は鳥取、島根、山口の担当でした。宇部興産や日立金属といった大口ユーザー、それから代理店が取引相手でした。営業です。商社や代理店の皆さんと連携して鉄工所などに売り込むわけです。感じたのは、空洞化でした。造船所に行くと、現場にいるのはフィリピン人と中国人。何十年もやって来た親方が「技術を伝えたいけど、日本の若いのは続かないんだよな」とこぼしていました。日本は強い国だと思っていたのに、このままでは技術が海外に流出するばかりではないか。日本が積み上げてきたいろんな財産が消え、アジアの国々に追いつかれるのではないかと思いました。長期不況が続いているし、国や地方の財政も悪くなっているし、このままでいいのかという危機感が膨らんでいきました。
2005年、政治の道に第一歩
2005年、政治の道に第一歩
神戸製鋼での仕事は楽しかったし、人間関係にも恵まれて、高知に帰るのはまだ先だと考えていました。そんな私の背中を押したのは小泉純一郎さんの郵政解散です。2005年、小泉さんは郵政民営化にまい進していました。この法案が否決されたら衆院を解散するぞ、と洗面していた郵政民営化法案を参議院が否決したのが8月8日。小泉さんは即日解散を断行します。私は「どうせ高知に帰るなら選挙のときに帰りたい」と思っていました。政治の世界では選挙のときが人手もいるし、人と知り合える最も重要な時間だと思っていたからです。公示日は8月30日です。私は神戸製鋼に8月31日付の退職届を出しました。
神戸製鋼にいたのは1年5カ月でした。いま考えても神戸製鋼の日々は忘れられません。人に恵まれました。あそこで企業の一員としてサラリーマンを経験していなかったらその後の人生はかなり違ったと思います。
神戸製鋼の経営戦略の真髄、魂ともいえるのが会社のスローガン「オンリーワン」でした。新入社員当時、研修で視察したのは世界の半分のシェアを誇る船舶用クランクシャフトの加工です。その技術は、かつて戦艦大和の建造にも使われました。ほかにも自動車用の高張力鋼、海軍と共同開発した溶接棒…。神戸製鋼は鉄鋼業界では巨大ではありません。その代わりチャレンジスピリットを大切にしつつ、独自の強みを持つ製品を生み出していました。技術に誇りを持ち、規模で勝負しないその姿勢は、高知県のことを考える私に大きな勇気とヒントを与えてくれました。
神戸製鋼の人たちとはいまだに付き合いがあります。辞表を出したあと、本社の部長さんがわざわざ面談してくれました。粕谷強さんという人で、当時は溶接カンパニー営業部長、のちに常務になります。「どうするんだ」と粕谷さんに聞かれたので「政治をやりたい」と答えると、「頑張れ」と言ってくれました。粕谷さんは「自分のクラスメイトが高知で政治家をやっている」とも言っていました。それが当時高知一区選出の自民党衆議院議員だった福井照さんでした。福井さんは神戸市の灘高から東大を経て建設省に入った秀才です。粕谷さんは灘高で福井さんと同級生だったと言っていました。
高知に帰ったのは衆院選公示の2~3日前です。「改革のゴジラ号」に荷物を詰め込んで高知に戻ってきました。「改革のゴジラ号」は北神圭朗さんにもらった普通車です。北神さんは2003(平成15)年の衆院選に民主党公認で初出馬し、落選していました。事務所の活動を手伝っていたので、北神さんにもらいました。薄緑色のトヨタコルサです。ちっちゃい、40万キロも走っている車でした。北神さんは身長が180センチ以上ある偉丈夫なので、ゴジラというのはぴったりです。でも車はちっちゃかった。車には「改革のゴジラ」のシールが貼ってありました。荷物を詰めた段ボールを「改革のゴジラ号」に押し込んで広島インターから高速に乗ったとき、涙が出ました。神戸製鋼のサラリーマン生活は毎日が充実していました。楽しい生活に別れを告げ、ぽろぽろ泣きながら高知へ走りました。
2006年、県議選出馬へ4坪の事務所を開設
2006年、県議選出馬へ4坪の事務所を開設
2006年2月、翌年の高知県議選高知市選挙区に立候補するため、高知市内に4坪の事務所を開設しました。同月12日、ブログを開始します。記念すべき第1回に、私は以下のように書きました。気負いがある文章ですが、当時の気持ちがよく表れています。
今日からブログをはじめることにしました。
それというのも本日ようやく自分の城(事務所)ができたからです。たった4坪の小さな城ですが、ここで一から頑張っていきたいと思います。
場所は電車通りの出雲大社の近くです。
まだまだ電話をひいたり、ネット環境をつなげたりとやらないといけないことは沢山ありますが、とにかく荷物は入りました(笑)
思い返せば高校を卒業し、上京してからここに帰ってくるまで本当に色々な事がありました。
高校生の時から続けていたバンド活動にあけくれていた大学生前半。
政治家の事務所で勉強させてもらった大学生後半。
そして就職してから神戸製鋼所の社員として過ごした毎日。
特に神戸製鋼所での会社員生活では配属された中国支店の方々や、取引先のみなさん、そして同期のみんなや就職時お世話になった人事部の方々、本当に筆舌に尽くし難い恩を受けた。
それなのにこんなに短期間で退職してしまう事になってしまった時、色々と迷惑をかけたのにも関わらず、最後は「頑張れよ」と背中を押してくれたことは忘れることができない。
そして高知に帰って政治に携わる。
この思いを抱いて帰郷してから様々なことがあった。
感じた事。
政治は「悪いこと」なのだろうか。
帰郷してから「政治関係の仕事をする」と話すと、特に同世代のみんなからはこう聞かれることが多かった。
「給料どれくらいもらってんの?」
「儲かるんでしょ?」
これが政治家像の実態だとしたら、これは変えなければならない。
今は混迷の時代だと言われている。
多発する凶悪犯罪、地方と都市部の格差、日本人らしさの崩壊・・・。
学者も政治家も官僚も必死に「国のかたち」「地方のかたち」「生き方のかたち」を模索している。
その根底にあるもの、それは潔い生き方の欠如、道徳の欠如ではないだろうか。
ばれないことが美徳の世の中。
人より得することを奨励する世の中。
模範となるべき政治家までが率先してこれを奨励する。
なるほどみんなが上記の様な政治家像を抱くのも無理はないかもしれない。
しかし本当にこのままで良いのだろうか。
幕末時の日本人をある外国人はこう評している。
「彼らは貧しい、しかし潔い。」
もう一度立ち止まって自分達の未来を問い直す時期なのではないだろうか。
高知に帰るまで、学生の時も会社員の時もずっと心に残っていた本がある
。15年程前、「地方から国を変える」というテーマで出版された本で、著者は当時熊本県知事を辞職したばかりの細川元首相と当時出雲市の市長だった岩國哲人現衆議院議員だ。
特に岩國さんの経歴を見て驚いた。
世界最大の証券会社メリルリンチの副社長まで登りつめながら、会社を辞めて故郷出雲市に帰り市長になり、市の再建を果たしていた。
収入だけを見れば雲泥の差であるし、あえて苦労を買うことはない。
しかし僕の目には非常に岩國さんの生き方は潔く映った。
その本の巻末に岩國さんはこう書いていた。
「青年よ、故郷を目指せ。」
身震いがした。
いつもこの言葉は頭を離れなかった。
そして我慢できず故郷に帰ってきた。
何にせよ僕はもう高知に帰ってきた。
前に進むのみだ。
2007年、高知県議選。奇跡の2位当選
2007年、高知県議選。奇跡の2位当選
2007(平成19)年4月の高知県議選に民主党から出ました。何の根拠もなく勝てると信じていましたが、選挙は甘いものではありません。カネはない、地盤はない。最初は卒業名簿が頼りでした。いろんなつながりで支持を訴えました。忘れられないのが、「高知県の将来は厳しい。自分の子供たちにはもう高知に帰って来なくていいと話している。本当は寂しいし、将来に不安もあるが、それ以上に子供たちの将来が大事だから仕方ない。なんともいえないその気持ちをシュウ君に託してみようか」と同級生のお父さんお母さんたちに応援してもらったことです。同じような話は至るところで聞きました。高知に希望を灯したいと痛切に感じました。一度都会に出て外から故郷を見た身として、まだまだ眠っている可能性が高知にはあるはずだと強く思いました。その思いの中で考えたスローガンが、今も継続して使っている「活かそう土佐の潜在力」でした。
告示日直前、力不足を日々痛感し、当初の根拠なき自信もボロボロになった私は、ただただあいさつ回りを続けていました。そんな時、友人が「GReeeeN」というグループ名でデビューしました。「道」というシングルの曲が売り出され、なけなしのお金で応援だと思って20枚買いました。買ったばかりのその曲をあいさつ回りの車でかけたときのことです。運転してくれていた後輩が、「何すかこれ。めっちゃよくないですか」と興奮していたのを覚えています。その横で、「じゃあ少しは売れるかも。こんなに買わんでもよかったかも」と他人事のように思っていました。そのとき、歌の歌詞がどーんと心に分け入ってきました。
「誰しも僕ら人生は一度 正しい道か誰もわからないけど きっと人生はそんなところ大事な気持ち見失わずいこう」。最終盤の、心が折れそうなときでした。GReeeeNの「道」に大きな力をもらいました。この曲は、今でも私の勝負ソングです。
投開票日は4月8日。奇跡的な選挙だったと思います。結果はなんと2位当選でした。自宅で待機していた私に真っ先に当選祝いの電話をくれたのは、高知学芸中高でお世話になった川添永子さんでした。上海列車事故で亡くなった伝説の剣士、川添哲夫先生の奥さまです。実は永子さんも伝説の剣士です。国士舘大時代から全日本女子剣道選手権で3連覇。哲夫先生が亡くなったあとは永子さんが学芸の先生になりました。
事務所は若い仲間たちで沸いていました。ライブの調子でダイブをしたのがテレビに映り、若いと喜んでくれる方も、はしたないと叱ってくれる方もいました。とにかくうれしかった。翌朝にはNHK「おはよう日本」で紹介されました。全国放送です。民主党新人の代表として、北海道議会議員に初当選した自民党新人代表の堀井学さん(リレハンメル五輪メダリスト、現在は衆議院議員)と一緒に取り上げられました。神戸製鋼の人たちを始め、多くの方から連絡をもらい、気が引き締まりました。
2007年、県議生活をスタート
2007年、県議生活をスタート
高知県知事は改革派知事として全国に知られた橋本大二郎さんでした。橋本県政の特徴は野党が多数派だったことです。自民党も、民主党も野党でした。そのこともあり、自民党県議とは連帯感がありました。ライバルであり、連帯感もあるという感じです。中央政界では政権交代の波が迫っていましたが、高知県はちょっと違った風が吹いていました。
橋本大二郎さんという舌鋒鋭い知事に鍛えられたからでしょう、県議会に出た私は自民党議員の質問レベルの高さに驚きました。自民党の若手県議は、全国でも当時ほとんど例のない議員提案条例を何本も成立させていました。条例を提案した議員は、その条例について説明をしなければなりません。議員からの質問を受け、答弁しないといけないのです。2005年10月に可決、交付された「高知県食の安心安全推進条例」は共産党系会派の議員から追及されたそうです。答弁を重ねた自民党県議は、「追及されたことが自分の能力向上につながった」と振り返っていました。議員提案で実現された条例は、ほかにも「あったか高知観光条例」「高知県うみがめ保護条例」「高知県緊急間伐推進条例」「高知県暴走族等の根絶に関する条例」「高知県放置自転車の発生の防止及び処理の推進に関する条例」「高知県がん対策推進条例」などたくさんありました。
2009(平成21)年に議員提案の議会基本条例を作ったとき、私は「反問権」を入れようとしました。これがこの条例のポイントでした。反問権というのは執行部に与えるのです。議会というのは議員が執行部に質問をするものなのですが、執行部にも質問する議員への反問権を認めよう、と。ともすれば議員は言いっぱなしになります。主張に責任を持つなら、執行部にも質問してもらったらいい。それによって議員の質問の質は格段に向上すると考えました。自民党の武石利彦議員、無所属の清藤真司議員と3人で練り上げました。根回しもしましたが、自民党は消極的、共産党は反対しました。共産党の反対理由は「執行部とは持っている情報の量に差がありすぎる」でした。議会基本条例は成立したものの、最も肝心の部分は残念ながら抜けてしまいました。
自民党と民主党がともに野党だったことは、私にとって大きな財産になりました。長年にわたって汗をかいてきた自民党の議員から学ぶことができたからです。県政に厳しい目を向けることができたし、建設的な議論をするということも学びました。中央政界では政権交代の波が迫っていましたが、高知県はちょっと違った風が吹いていました。ともに橋本大二郎という強大な相手と戦っているという、まるで戦友のような雰囲気すらあったのです。私が所属した会派(県民クラブ)の長老議員は自民党の長老議員と親しく、シャモ(軍鶏)を手に入れては酒を飲んでいました。私もご相伴しながら、互いに胸襟を開いて県政を語り合う姿を学ばせてもらいました。
2012年、衆議院選挙に出馬。敗北
2012年、衆議院選挙に出馬。敗北
2007年9月に民主党県連の総会が開かれ、私が幹事長になりました。ここから目まぐるしく情勢は変わります。2009年8月の総選挙で政権交代が実現し、民主党の鳩山由紀夫さんが首相となりました。2010年6月に首相は菅直人さんに代わり、2011年3月11日に東日本大震災が起きます。2011年9月に首相となった野田佳彦さんは2012年11月に衆議院を解散しました。ここで私は選択を迫られます。
高知県では民主党の候補は誰も決まっていませんでした。候補となるべき支部長が、一区、二区、三区とも不在だったのです。民主党内で「次はどうする?」という話が出たとき、自然と私に流れが向きました。ただ一人の県議会議員であり、県連幹事長でしたから。衆院選出馬の打診を受け、私は「受けるしかない」と思いました。理由は「失敗も含めて評価を受けなければならない」と考えたからです。政権を取って以降、民主党への批判は高まりました。それは国民の期待を裏切ったということです。政権政党として民主党が審判を受けなければならないし、高知県では私が真っ先にその俎上に上がらないといけません。要するに、逃げるわけにはいかないと思いました。
2割くらいは別の理由もありました。与野党の足の引っ張り合いを終わりにできないかと思ったのです。政権を取る前、特に参議院で多数派となって以降の民主党は、与党自民党の福田康夫、麻生太郎両政権に厳しい対応をしました。2009(平成21)年に政権交代したあと、今度は与党民主党が参院選で敗北します。そうすると野党の自民党が民主党政権に厳しい対応をしました。個人攻撃のような質問、特例公債法案など本来は議論の余地なく通過させるべき予算への反対、まさに怨念の政治です。与野党で足を引っ張り合う怨念の政治を断ち切る必要がある、そのためには私が国会に、という思いです。高知県の民主党と自民党は全国とは全く違う関係を築いていました。ともに県政野党だったこともあり 、協力できるところは協力しながら研鑽を積みました。その経験を生かしたいと考えたのです。
高知市を中心とする高知一区から衆議院議員選挙に立候補することにしました。この選挙戦は、内にも外にも難しい課題が山積していました。国政に出馬するとなると、県議会議員選挙の時は争点にならず、聞かれることもなかった政治スタンスを問われるようになります。特に憲法、安全保障、エネルギーは重要です。私は学生時代から憲法は改正すべきだと考えていましたし、外交安全保障やエネルギーについても現実的対応が必要だと考えていました。ところが民主党を支持してくださる団体の皆さんの中には真逆の考え方の方々がたくさんおられました。新聞など各種アンケートにどう答えるか。私は自身の考え方をはっきり打ち出しつつ、理解を求めたいと思いました。が、「分かっていない若造が何をいうか!」「言う通りやれ!」と主張する方もいました。
今考えれば、私は政治経験も少ない若造なのです。周りから見ると、その若造が自己主張を押し通そうとしているとしか見えなかったと思います。おそらくそれによって余計なハレーションを起こしていたのですが、当時はそれも分かりませんでした。ただただ必死でした。周りを見る余裕もありませんでした。
外の逆風もすさまじいものがありました。政権交代が失敗だった、裏切られた、という国民の怒りが沸騰していたのです。渡したビラをその場でくしゃくしゃにされ、目の前で投げ捨てられたこともありました。厳しい選挙でした。投開票日は12月16日。結果は自民党の福井照さんが4万4千票、私が2万5千票。比例の政党票では維新に大きく水をあけられました。
衆議院選挙には2014年、2017年と3回連続で挑戦しました。2014年の選挙では選挙区を選択する必要がありました。この選挙から高知県は定員が減り、一区と二区だけになったのです。新たな区割りは高知県を西と東に割ったものでした。県議選、衆院選とも高知市を選挙基盤にしていた私は県東部を選挙区とする一区から出馬するか、県西部の二区から出馬するかを迫られました。私は一区を選びました。
2014年衆院選の投開票日は12月14日。選挙の結果は3万8000票でした。やるだけのことはやりましたが、中谷元さんは倍以上でした。民主党は民進党になり、民進党が解党して希望の党ができました。希望の党から出馬した2017年衆院選は10月22日が投開票で、4万5000票。またも中谷さんに完敗でした。この選挙が終わったあと、私は政党を離れました。どこの政党にも属さず、独自の政治活動を模索しました。
2015年、ビニールハウスでシシトウ収穫
2015年、ビニールハウスでシシトウ収穫
2012年の衆院選以降、浪人生活が長く続きました。街頭演説は毎朝続けていたのですが、2015年からは演説前の早朝にシシトウ収穫のアルバイトをしました。ビニールハウスの中でシシトウをちぎるのです。なにしろ収入がほとんどありませんから、働かないといけません。加えてハウス園芸の現場を知りたいという思いもありました。シシトウは高知県が全国の4割を生産しています。圧倒的生産量1位です。ナス、ピーマンと並んで高知県を代表する野菜です。
ハウスの持ち主は県議会議員だった元タレントのふぁーまー土居さんでした。土居さんは私と同じく2007年県議選の初当選組でしたが、3期目を目指した2015年の県議選で落選していました。落選後、「農業に戻ろうと思う。でも人手が足らん」と漏らした土居さんに、私は「僕を雇うてほしい。農業の勉強もしたい」と答えました。で、毎朝5時に土居さんのビニールハウスに通っていました。ハウスの中でこんな会話もしました。「考えてみたら8年前はトップ当選と2番でしたねぇ」。そう、2007年の県議選(高知市選挙区。定数15)は土居さんがトップ当選、私は2位当選でした。ラジオでは安保法制をめぐる話題が流れていました。それを聞きながら黙々とシシトウをちぎっていました。
浪人時代はいろいろな民間イベントに協力しました。たとえば南国市の若手が挑戦していた「ごめんなさいプロジェクト」や「ごめんシャモ研究会」の活動です。「ごめん」というのは南国市の中心、後免(ごめん)地区のことです。2025年のNHK朝の連続テレビ小説はやなせたかし先生ご夫妻を描いた「あんぱん」ですが、やなせさんが育ったのがこの後免地区です。「ごめん」と言っても謝っているわけではありません。藩政時代、ここに街を作った野中兼山が諸役御免(労役などを免除)にしたのが名の由来です。2015年ごろ 、珍しいこの街の名を使ったイベントが次々とできたのです。「ごめんなさいプロジェク ト」は、特設ステージから大声で誰かに「謝罪」をしてもらいます。祭りの名は「ごめんな祭(さい)」。今では南国市を代表するイベントになっています。
「ごめんシャモ研究会」は坂本龍馬をモチーフにしています。1967(慶応3)年11月15日、暗殺された夜に龍馬がシャモ鍋を食べようとしていたのは有名な話です。坂本家のルーツが南国市才谷であること、南国市は昔から闘鶏が盛んだったことから、全国でも珍しい100%純血のシャモを発信しようと考えました。しかも生産から販売まで一貫経営で手掛けよう、と。メンバーの一人が高校時代からの友人だった縁で応援させてもらいました。2015年11月には東京・丸の内で行われた農林水産省主催の食の祭典に出場しました。持ち込んだのはシャモのラーメンです。私も特設屋台でシャモラーメンを作り、販売しました。シャモラーメンの評判は上々で、見事に入賞しました。
結果的に私は2012年から2019年まで7年間の浪人生活を送りました。気持ちを保てたのは、日本の国のために働きたい、高知をよくしたい、という思いがあったからだと思います。朝から晩まで勉強もできるし、知り合いも増えました。もちろん経済的には楽ではありませんでした。「何もお返しはできませんが」と断りながら個人献金のお願いにも回りました。最もしてくれた人は、月5万円を献金してくれました。大口はいません。すべて小口です。そのおかげでなんとか生き延びることができました。会費1万円のパーティーには500人前後の人が来てくれました。数えきれない人たちに支えていただきました。
2019年4月、高知県議会議員に復活
2019年4月、高知県議会議員に復活
国政選挙に3度連続して落ち、政治的にはいったん死にました。暗黒時代でした。手を差し伸べてくれたのは高知県知事だった尾崎正直さん(現自民党衆議院議員)です。「大石さんは現場にいないといけない。県議会に戻るべきだ」と。何度も何度も、熱心に尾﨑さんは説いてくれました。県議会議員に戻る、という選択肢が私の脳裏に舞い降りました。私は2012年、任期半ばで県議会議員を辞していました。票を入れていただきながら議席を放棄してしまった、申し訳ないという思いを持ち続けていました。半面、浪人中も自分なりに一生懸命活動しました。併せて私は多くの方々にお世話になっているという思いを持つようになっていました。尾﨑さんの話を聞きながら、県民の皆さんのために私がお役に立てるかもしれないと思いました。そのように尾﨑さんは思わせてくれました。
2019年4月の高知県議会議員選挙に立候補しました。この選挙はいままでとは違いました。これまでは政党をバックにした選挙でした。労働組合もついていました。ところがこのときは全くの無所属、どこの推薦もいただきませんでした。危機感が人の輪を広げた選挙でした。一人、また一人と応援の輪に加わってくれました。たくさんの方々が「大石宗を助けたい」という気持ちだけで動いてくれたように思います。
投票日は2019年4月7日。私はトップ当選でした。入れていただいた票は14600票。記者の人から「史上最低の投票率で史上最高の得票率と得票数だ」と教えられました。驚きました。本当に思いがけない票数でした。生き返らせてもらいました。当選はしたものの、私には仲間がいませんでした。野党共闘を志向する旧民主党系から離れ、かといって自民党に入ったわけでもありませんでしたから。一人会派でやるしかないと考えていました。一人会派は正式会派とは認められないので、前途の厳しさは感じました。
ここで手を差し伸べてくれたのが6期目の当選を果たした自民党の武石利彦議員です。武石議員は「一緒に会派を組もう」と声をかけてくれました。2人で立ち上げた会派が「一燈立志の会」です。会派の名は愛媛県選出の元自民党衆議院議員、小野晋也先生に相談しました。小野先生から送られてきたのは江戸後期の儒学者、佐藤一斎の「言志四録」にある「一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うること勿れ、只一燈を頼め」でした。夜道を歩むときにその暗さ(自分の置かれている厳しい状況)を嘆き悲しむな。ひたすらに堤灯の一燈を頼みにしろ(わずかな可能性を信じて迷わず進め)、ということです。これは私たちにぴったりだと思いました。一燈について調べると、最澄の「一燈照隅 万燈照国」も見つかりました。人ひとりが自分の身近の一隅を照らすと一隅を照らす人が増えていく。万のあかりとなれば、国全体を照らすことができる、という意味です。まずは現場から、地域から事例を作る、各地域が元気になれば日本が元気になる。これもまさに私たちの志そのものでした。最澄は平安時代初期、桓武天皇から求められて唐に赴いた高僧です。帰国して天台宗を開きました。同時代の空海が弘法大師と呼ばれるのに対し、伝教大師と呼ばれます。「一燈」を名前にすることに決めました。
「一燈の会」でどうかと思ったのですが、少し座りが悪い。そこで「立志」を考えました。自由民権運動や立志社、立志学舎が好きだったんです。志を立てるというのも私たちにぴったりだと思いました。佐藤一斎は立志という言葉の成り立ちをこう書いています。「立志の立の字は、豎立・標置・不動の三義を兼ぬ」。現代語訳すると、「志を立てるの立という字は、豎立(真直ぐに立つ)と標置(目印を立てる。高く自らを持する)と、不動(しっかりと動かない)の三つの意義を兼ねている。すなわち志を真直ぐの立て、その志を目標として、不動の心をもって進まなければならないということである」となります。これもまさにぴったりでした。
2023年4月の県議選にも無所属で立候補し、再びトップ当選することができました。これで県議は4期目。「一燈立志の会」は仲間が2人増えて4人となりました。
2025年、自民党参議院徳島・高知選挙区支部長に
2025年、自民党参議院徳島・高知選挙区支部長に
高知県議会議員を務めていた2024年末、高知一区選出の中谷元衆議院議員、高知二区選出の尾﨑正直衆議院議員から自民党の戦列に加わって参議院選挙に挑戦しないかと勧められました。まさに青天の霹靂でした。さらに徳島県の二木博文衆議院議員、山口俊一衆議院議員からも同じお話をいただきました。私は熟議や民主主義という言葉に心酔しているので良識の府である参議院には違和感がありません。しかも吉田茂内閣の下、新憲法で参議院ができたときには参議院は地域代表の性格を有していました。地方の代表として国政に物申すのが参議院でした。考えれば考えるほど、参議院は私に向いているのではないかと思いました。地方を救うには日本を変えるしかない、とも思い至っていましたので、国政に足場を移すことにも違和感はありませんでした。
次に考えたのは、自民党から出ることです。私は原点に立ち返って考えました。私の曽祖父大石大は衆議院議員であり、祖父も国会議員を志したことがあります。私は子どものころから祖父に政治の話を聞き、政治はかくあるべきだと教えられました。政治はまっとうであるべきですし、まっとうな政治を支えるのが議会制民主主義です。議会制民主主義の退潮と歩を同じくして日本は戦争への道を進みました。政党政治の中枢で、風雪に耐えてきた巨木が自民党です。今、政党政治は崩壊しつつあります。それを避けなければならなりません。昨年は自由民権運動から150年の節目でした。政治を崩壊させるのではなく、今こそ政党政治、議会制民主主義を捉え直すときだと考えました。
結党時の自民党は「特定の階級、階層の利益を代表せず広く全ての大衆と共に繁栄をもたらそうとする国民政党である」との理念を掲げていました。それが本来の自民党のはずです。巨木を枯れさせてはいけない、今一度自民党に新鮮な血液を通わせたい、と考えました。熟考の末、2025年1月にこのお話を受けました。支え続けてくれている個人後援会の皆さんにも説明し、2月に自民党参議院徳島・高知選挙区支部長に就任いたしました。
政治の道に入って20年ですが、まだまだ道半ばです。日本のため、地域のため、ひたすら前に進みます。