
李登輝さんとの出会いと慰霊の旅
台湾が好きで、何度も行きました。総統として台湾の民主化を進めた李登輝さんにも何度かお会いしたことがあります。李登輝さんは坂本龍馬が好きで、台湾龍馬会の会長をしていました。最初に行ったのは県議1期目の2010(平成22)年7月です。先輩県議の結城健輔さん、西森潮三さん、そして清藤真司さんを誘って高砂義勇隊の慰霊碑に行きました。台湾は日清戦争後の1895(明治28)年に日本領となり、1945(昭和20)年の終戦まで日本の統治下でした。高砂義勇隊というのは原住民族の「高砂族」(タイヤル族などさまざまな民族の総称)で構成した部隊で、身分は日本軍の軍属(兵士以外の者)でした。密林での行動に慣れていることから、彼らを補給など兵站面で使おうと考えたのです。ニューギニア戦線にも投入されました。
作家の司馬遼太郎さんは、日台両国でベストセラーとなった『台湾紀行』の中で高砂族の民族性に触れています。「高砂族と日本時代によばれてきた台湾山地人の美質は、黒潮が洗っている鹿児島県(薩摩藩)や高知県(土佐藩)の明治までの美質に似ているのではないか。この黒潮の気質というべきものは、男は男らしく、戦に臨んでは剽悍で、生死に淡白である、ということである」と。グァムやニューギニア、ビルマを転戦した高知県の陸軍歩兵第百四十四連隊は、司馬が「美質が似ている」と感じた高砂義勇隊とともに戦いました。『台湾紀行』にも出てくる蔡焜燦さんの『台湾人と日本精神』には百四十四連隊の話が出てきます。ニューギニアのブナで玉砕するとき、自決に臨む山本重省連隊長が高砂義勇隊への感謝を込めた遺書を残したというエピソードです。過酷な戦場で、高砂義勇隊は勇敢でまじめでした。高砂義勇隊の一人は、餓死しながらも背中に背負った輸送中のコメには全く手を付けていなかったそうです。
1937(昭和12)年の盧溝橋事件(北京での日本軍と中国軍の偶発的戦闘)で始まった日中戦争から終戦までの間に20万人を超える台湾人が日本兵として出征しています。うち、戦没者は約3万人です。ところが1988(昭和63)年に弔慰金の支給が決まるまで台湾人日本兵には戦後補償がありませんでした。しかも、その額は日本人とは比較にならないほど少ないものでした。「日本精神で日本人として戦った」と信じる彼らにとっては裏切られたような思いだったのではないでしょうか。裁判を起こした人もいました。さらに過酷なのが高砂義勇隊です。高砂義勇隊は4000名を超える人が出征し、生存率は1割以下だとも言われています。生還もおぼつかない戦場で黙々と働いたにもかかわらず、彼らにも戦後補償はないままでした。百四十四連隊の顕彰を進める中で高砂義勇隊の存在を知り、台湾に行ったときにはぜひ慰霊碑を訪れたいと思っていました。
李登輝さんに「高砂義勇隊のことを語り継ぎたい」と話すと、とても喜んでくれました。「あなたたちの世代が語り継いでくれるのはありがたい」と。続けて、尊敬していた実兄(李登欽さん)が日本海軍に志願し、マニラで戦死して靖国神社で祀られていること、そうした台湾人がたくさんいることも忘れないでほしい、とも話していました。
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